キャプションには、九七式中戦車改の車体と砲塔を利用し、これに短12cm砲を搭載した海軍の戦車である。
同心式の駐退機を採用している点が当時としては珍しい。 砲塔後部に見えるのは大型の工具箱で、弾薬は
車内に27発搭載している。 この写真に見られるように少なくとも4輌が完成しており、単なる試作ではない。
掲示板でお知らせしたら一部の方から好評をいただく(^^)。
後日、ZidさんとTAKIさんから以下の画像を頂く。
准海作戦中に解放軍によって捕獲された九七式中戦車をはじめとする旧日本軍戦車。
背後に積み上げられたドラム缶が見えるので、車両部隊の根拠地と思われる。
車両は大部分が九七式中戦車改で、中に短砲身57mm砲装備の九七式中戦車や九七
式軽装甲車が散見される。
各社とも可動状態にあるようで、この後、これらの戦
車は解放軍に配備され、国共内戦に活躍することとなる。
後日σ(^^)の掲示板で色々な方からご意見を頂いた。
新日本機甲さんからは「Pz誌の後の号に中国軍の改修だろうというような文章があったので(すいません随分前なのでうろ覚え)
国民党の改修車両だろうと思っていました。」
ARPさんからは「准海作戦て1948年の遼瀋・准海・平津戦役
のことみたいですね。(もっとも詳細はわかりませんでした。)
ですから、あの写真は日本軍からのものでなくて国民党軍からの戦利品てことですよね。1948年だと戦後3年。
Pz誌の中国軍の改修説が正しいかも....。」とのご意見を頂いた。
ARPさんの書き込みと新日本機甲さんの書き込みを総合してみると、
1945年から48年にかけて国民党軍によって改造された自走砲である可能性が高そうです。
以前掲示板で話題になっていたオランダ軍の装甲車の時にHP本体で期間限定公開したもの
MAXIM 高田さんからのメールをそのまま転載
掲載誌は Museum Ordnannce で、簡単な解説もついていますが
ただ、オリジナルの九七式戦車を説明するばかりで、
この車両の素性に関する情報は、何もありません。
もちろん、撮影場所、撮影時期にも触れておらず、日本国内なのか、アメリカなのか、南方なのかも不明です。
この九七式火炎放射戦車、おそらく、試作車か実験的に数台が造られたのではと思いますが、なぜか、国内の出版物で
これに触れているものは少なく、もちろん、写真は皆無です。
火炎放射戦車の記述としては、竹内昭氏が、パンツァー誌1976年2月号で、九七式の派生型として火炎放射戦車があり、
車体銃を100式小火焔発射機に換装されたものと、タービンポンプ式火焔発射機を装備したものを紹介しています。
もしや、後者かとも思いましたが、火炎放射機の搭載法が『発射管は前型と同じ
く 車体前方の銃眼部にとりつけられ、
照準器つきである』と記しており、左右のスポ
ンソンに ある写真の車両とは、別もののようです。
あるいは、竹内氏が紹介した車両の改良型なのかもしれません。
Zidさんより「「火炎ノズル」の長さよりの推定ですが、歩工兵用の「一〇〇式火炎発射器」は「火炎剤」への点火は拳銃用の
空砲雷管を使用しておりますが、 図面を見ます限りは「戦車搭載型」では、スパーク利用の電気発火装置ではないでしょうか。
それと、「火炎放射戦車」の配属ですが、歩工兵用の「一〇〇式火炎発
射器」自体が対ソ戦用の「対トーチカ戦」・「対戦車戦」
機材であったため、戦車搭載型は「対トーチカ戦」機材として「独立工兵」・「戦車師団
−工兵連隊」等に配備されたものではないでしょうか。」
とのご意見を頂く。
高田さんが紹介していたPANZER 1976/2号に載っていた九七式火焔放射戦車の図面。
本文の竹内昭氏の解説では、陸軍技術本部の研究試作で、九七式中戦車の車体前方銃眼に100式小火焔発射機の発射管を
改造したもので、細部設計ならびに試作は塚本商事株式会社製造部が担当した。技本側の主任研究官は島津武少佐で、
昭和16年4月に研究を開始、5月下旬試作を完了した。
本機の性能は、射程20〜30m、持続時間約30秒というもので、25気圧の圧縮空気により火焔発射をおこなう方式だった。
(陸技四研秘第五号:戦車内ヨリスル火焔発射機使用法の検討考案研究報告−昭和16年)
上記とは別に、九六式装甲作業機戊型のようなタービンポンプ式の火焔発射機を装備するものも試作された。
タービンポンプは推進軸と平行して車内床下に置かれ、チェーンを介して駆動される。油槽は左側壁に設けられており、
発射管は前型と同じく車体前方の銃眼部に取り付けられ、照準器付きである(大前肇氏資料)
以前σ(^^)の掲示板にでろり笠松さんから「チハ車がベースと思われる奇異なる車両の姿が・・・!最初、工兵車両かとも思いましたが、
チハの砲塔が付いている様だし・・・。いったい何でしょ?」とタレコミのあったものです(^^)。
その後、新日本機甲さんから以下のようなRESがついています。
「「丸グ」の車両はチハ車の火焔放射型です。絶版洋書に写真が数枚載っていました。洋書の複写を某社の某編集部の親切な方に
送っていただきました。ありがとおおっっ(絶叫)
戦闘室と機関室はそっくり作りかえられていますが吸排気鎧扉の形態から見て発動機の換装までは行ってないようです。
武装は車体上部前面左右に火焔放射器が2つ、前部機銃廃止、砲塔はアンテナ無しのチハ車。砲塔は偏芯しているかどうか手元の写真では
判断つきません。火焔放射器用の燃料房は機関部の方にあります。だからオケツが大きいのですね。残念ながら車体後部からの写真は掲載
されていませんでした。小生の知る限り国内の書籍で本車を紹介した記事はTN誌以外見た事がありません。
車外装備品の類も確認できません。塗装は国防色単色と思われます。」
本の解説ではフィリピン・ルソン島中部の山岳地帯で日本軍主力が潜んでいたバレテ峠北方のボネ地区に、砲台代わりに埋められていた
九七式中戦車改とコメントされていた。
PANZER 1976/1の「特集九七式中戦車シリーズ」竹内昭
著によると、展望塔の形状が半球型という珍しい形であるとコメントされている。
この車輌は単なる試製ではなく、実戦に投入されているのに注意
!!。
なお原典の写真裏面には"Appears to
be 2597 Medium but wiht a much different
turret"と記されていた。
後日、でろり笠松さんから「「謎の半球型車長展望塔」は「開いたハッチ裏がコッチを向いているだけ」だと思っています。
普通じゃああなりませんが、破損してますし・・・。タミヤの新砲塔を使って試すと位置関係
はぴったりです。写真をよく見ると、
うっすらとキューポラも見えるし、ハッチ裏のディテールと一致します。」とのご指摘が。
TAKIさんから「あれのクリヤーな写真はグランドパワー「太平洋戦争の機甲部隊(1)」のP.106に載ってます。
それを見ると写っているのはハッチの裏側だと言うことが良く分かると思います。」とのご指摘を頂く。
と言う訳で「謎の半球型車長展望塔」は開いたハッチ裏がコッチを向いているだけという情けない結論に達しました(^_^;)。
小林克美さんからのリクエスト
昭和17年7月7日に制定された仮兵器迷彩要領には使用色彩、移動兵器迷彩法、固定兵器迷彩法、塗料、迷彩塗料取
扱法、
及び付図として色の標本(土草色、土地色、枯草色、草色)、九七式中戦車(前、
後、左、右、上面)、九〇式野砲(同)、
自動貨車(同)、天幕(側面、上面)、二十四
糎加濃砲(上面、側面)が載っていました。
土地色がチョコレート色、草色はくすんだグリーン、土草色はカーキドラブ、
枯草色は明るいカーキで書かれていました。
(各色はσ(^^)の主観です)
残念ながらこの附図は公文書なのでカラーコピーする事が出来ませんでした(;_;)。
小林克美さんからのリクエスト クリアーな写真が見あたりません(;_;)。